沿革(1973〜現在)

成熟期 昭和48年~60年(1973~1985)

「量から質へ」の転換をはかる

1973年
第一次石油危機始まる
円、変動相場制に移行
 
1974年
日米繊維協定発効
 
1975年
3代目・常俊社長就任
 
1976年
ロッキード事件発覚
 
1977年
最新鋭染色設備機械導入
「不確実の時代」ベストセラーに
 
1978年
第二次オイルショック
 
1979年
日本でリニアモーターカーの実験成功
 
1980年
日本が自動車生産で世界第一位に
 
1984年
アフリカの飢餓問題が深刻化
グリコ・森永事件
 
1985年
日航ジャンボ旅客機の墜落
民営化により、NTTが発足
昭和48年末に「オイルショック」という大きな経済転換期を迎える。
こうした中で50年8月に2代目社長・飯田常次郎が死去する。
常次郎は東淀川区の分区の際に、その実行委員長として尽力し、また、東淀川工業協会会長などの数々の要職を務め、「世のため人のため」をモットーに地域と業界の発展に寄与した。
3代目社長に飯田常俊が就任する。
オイルショック以来、需要が低迷し染原材料の大幅値上げによって染色業界は多大の打撃を受けていた。
これの打開策として「量から質への転換」をはかり、40年代半ばから”アジア製品”への対抗として「高級化路線」の萌芽を育ててきていたが安定成長期を迎え、それを更に強化することになった。
それは多品種・小ロット・短サイクル化や差別化戦略の始まりであり、昭和50年代から「差別化商品」の取り組みが本格化する。
52年には最新鋭の染色設備を導入し生産の合理化を図るとともに、ファッション化に新しい視点を求め、イメージによる加工開発など最終消費者が求める製品の提供へと方向転換を図る。
 

差別化商品への取り組みによる当社の開発加工品

新生東淀川区の発足を祝って、祝賀会場で音頭をとる区庁舎建設委員長の飯田常次郎社長(当時)

挑戦期 昭和61年~平成7年(1986~1995)

FAシステムの導入でハイテク化へ

1986年
経営理念
「TOP90」設定
ソ連、チェルノブイリ原発事故
チャレンジャー爆発事故
 
1987年
JRの発足
大韓航空機墜落事件
 
1988年
染色・漂白FA化着手
リクルート疑惑発覚
瀬戸大橋が開通
 
1989年
消費税(3%)スタート
 
1990年
第一次工場再構築
「国際花と緑の博覧会」開催
 
1991年
湾岸戦争勃発
ソ連が解体、15の共和国に
 
1992年
創業90周年式典
 
1993年
Jリーグ開幕
 
1994年
総合CPシステム着手
関西国際空港開港
 
1995年
飯田常俊会長就任
上田達男第四代社長就任
第二次工場再構築

阪神・淡路大震災がおこる
昭和61年に経営理念「TOP90」として創業90周年を控えての飯田繊工の”あるべき姿”を策定する。これのメインプロジェクトは染色工程のFA化であった。63年、チームを編成しシステム化に取り組み、漂白・染色のFA化をはかった。複雑化する多様な加工技術に対して、業界に先駆けたQA化・FA化は大きな力となり、高い生産性、品質の高度化・精度化・均一化の実現に大きな成果を上げた。
 時代は「平成」へと変わり、コンピュータを基本としたシステム化の構築とその推進による管理の徹底を基本姿勢とした。平成3年に新たに5年先の目標と指針を掲げた経営理念「TOP95」を設定する。翌4年にFA化完成記念を兼ねて創業90周年記念式典が開催された。繊維を取り巻く国際経済は急激に変化する中、これまでの技術の蓄積をもとにアジア地域の低価格品[輸入品]にはない高品質を追求する一方で企業の個別ニーズをつかみながら「多品種・短サイクル」への対応を最大の課題として、システム化の充実によるQR体制を推進し独自性の確立に努めた。
平成7年に3代目社長飯田常俊が会長に、4代目社長として上田達男が就任する。
 

FA集中管理装置

染色機自動制御室

商談ルーム 「コットンクラブ」

変革期 平成8年~平成11年(1996~2000)

合繊ブームから綿ニットの復活へ

1996年
経営理念「TOP100」設定
 
1997年
消費税5%に引き上げ
 
1998年
複合素材加工技術確立
長野冬期オリンピック開催
明石海峡大橋開通
 
2000年
飯田繊工ホームページ開設
IT革命が全世界を駈け巡り時代は大きく変化し、 グローバル化が急速度で進展しサバイバル競争は更に激化している中で、 世界に向けての幅広い視野が要求されることになった。
21世紀には飯田繊工が他社とは違う独創性にあふれ、 魅力と活力ある会社として日本の頂点に立ちたいと願った理想の姿が、 平成8年に設定した「TOP100」である。
「TOP100」は総合的なコンピュータ構築の実現を中心に見据え、OA化・ FA化・LA化並びにWebの活用を目指したものであった。
そして、1998年にはFA化の一環として染色自動化システムの頭脳ともいうべき自動レサイプ作成システムを完成させた。
更に、染色の生産計画[自動釜割]を構築し、既に自動化されていた染色機との連動を可能にした。
加えて1999年には、それまでに構築してきたオフコンベースのコンピュータシステムをクライアント・サーバー型システムに置き換え[転換し]ネットワークシステムの方向性を確立し、飯田繊工は21世紀へのスタートラインに立ったのである。
 

トータルネットワークシステム

新世紀 平成12年~現在

更なる飛躍を目指して新世紀へ

2001年
飯田忠弘第五代社長就任
飯田繊工「白寿記念」式典
トータルネットワークシステム完成

イチロー・新庄、大リーグへ
 
2002年
飯田繊工創業100周年
サッカー日韓ワールドカップ開催
 
2003年
イラク戦争勃発
 
2004年
ホームページのリニューアル
アテネ五輪開催
 
2005年
繊維学会技術賞の受賞
高圧染色機[横型]3基の導入
 
2006年
排水処理施設の新設(導入)
トリノ冬季五輪開催
サッカードイツW杯開催
 
2007年
高圧染色機『横型』2基の導入
コンピュータ・サーバの更新

郵政民営化はじまる
 
2008年
試験研究室のリフォームと新機種の導入
KES・環境マネジメントシステム・スタンダード[ステップ2]登録

北京五輪開催
ノーベル賞受賞、日本人4人
 
2009年
片平晴夫第六代社長就任
ホームページの再リニューアル
第44代米大統領にオバマ就任
第2回WBC、侍ジャパン優勝
 
2010年
ISO9001認証取得
ワールドカップ南アフリカ大会開催
 
2011年
プレゼンテーションスペース
「コットンクラブ」改修
ボイラー設備更新
東日本大震災
 
2012年
飯田繊工創業110周年
ロンドンオリンピック開催
 
2018年
上田 純第七代社長就任
飯田繊工は2002年に創業100周年を迎えた。
この記念すべき年に当り、2001年秋にホテル「阪急インターナショナル」 において盛大に白寿記念式典が開催され、新たに飯田忠弘が第5代社長に 就任し、飯田繊工は新世紀を迎え更なる飛躍を誓った。
工場におけるシステム化が進歩する中にあって、2005年には繊維染色加工工場での生産システム稼動の優秀性を高く評価され、異例の「繊維学会技術賞」 という栄誉を受賞する。
生産稼動においては、複合素材の割合が年々増加傾向にあることを先取りし、 2005年にサーキュラー(横型高圧染色機)を3基導入し、新たな素材に対応できる生産体制を整備した。
更に、2007年には2基のサーキュラー機を追加導入し、新合繊素材に対応する万全な体制を構築している。
また、エコ推進の一環として染色排水の浄化システムとして新機種 [エスローテ機6台を2006年に導入し、そして又、全社員一体となって地球環境に配慮した工場を目指し日々活動している中において、2008年12月に 、「KES・環境マネジメントシステム・スタンダード(ステップ2)」の認定取得をした。
 積年の中で品質に対する要求は厳しさを増しているところで、飯田繊工の技術試験設備について更なる充実を図る目的で2008年に大幅なリフォームを行い、清潔で作業性の高い環境の実現となっている。
創業100年を超えた飯田繊工は2008年12月、新たに第6代社長として 片平晴夫が就任した。
この新体制の元、創業110周年に向けて2009年に掲げた「TOP110」では、業界における国内最高水準を誇る飯田繊工のコンピュータシステムに更なる磨きをかけ、社員のレベルアップを図り、お得意先・仕入先・業界・地域等々の皆様方からの信頼を受け、社会に必要とされる存在価値のある企業を目標とした。
 

横型染色機

繊維学会技術賞

環境プロジェクト委員会
 
創業115周年に向かい、我々が目指す顧客満足度の原点は品質マネジメントシステムにあるとの思いから2010年7月にISO9001を取得した。
また2011年にはプレゼンテーションスペース「コットンクラブ」を改修、ここで繰り広げられる活発な意見交換から、いち早く世の中のニーズを取り入れた画期的な商品が次々誕生している。
今後益々グローバル化する経済状況の中、飯田繊工もそれに伴い大きく変化していく事が重要である。
しかし創業精神である「繊維を通じて社会に貢献する」は脈々と息づいており、染色業を中心的事業と位置付け、技術と開発に重きを置き、これを堅持することは勿論変わらない。その上で知恵と創造力を駆使し、更に新たな方向性も見出しながら、最大の社会貢献である永続する企業を目指す。
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