沿革(1903〜1972)
創業期 明治36年~大正8年(1903~1919)
明治の創業の夜明け
1878年
初代・飯田常次郎出生
1879年
教育令の制定
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飯田繊工株式会社の創業者である飯田常次郎が明治11年(1878年)2月23日に奈良県磯城郡にて出生する。
17才の折に、志を抱いて大阪市北区で叔父[藤田幸三郎]が経営する染色工場に見習い工として就職する。
10年間染色技術を学び、明治36年(1903年)6月に天満橋筋5丁目に小さな工場を借り、タオル晒工場をつくり宿望の独立をはかる。
経営は苦難の連続であったが、身を粉にして働き「洋晒」という当時の外国からの先端技術を取り入れた
進取の気質と果敢なる挑戦者魂で、少しずつ軌道に乗っていった。
常次郎は”商売は人に喜ばれてこそ繁盛する”をモットーに、世の中に貢献することを最上の喜びとし、戦前戦後を通じて会社経営の傍ら大阪市会議員・大阪莫大小工業組合理事長・東淀川区衛生組合長などの要職を進んで引き受けていた。
創業者 飯田常次郎 天神社と社長寄贈による石碑 会社敷地内にある稲荷神社 |
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事業拡充期 大正9年~昭和15年(1920~1940)
淀川のほとりに発展の礎を固めて
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天満橋筋の工場が手狭になり、大正9年(1920年)10月に現在地[東淀川区菅原]に新工場を設立する。
当時は田園風景が広がる農業地域で、淀川から貯水池に水を引き浄化して使用し現在も生きている。 水を大量に使用する染色業では大きな濾過池を必要としていて、早速工事に取りかかったところ、仁徳天皇時代の古代の杉の「くり舟」が出土する。 貴重な古代遺蹟品として大阪城の天守閣に展示されることになった。 この地における晒染工場の建設創業は東淀川区の工業の草分けと言われている。 大正12年には、メリヤスの他に綿布漂白を始め商標名「満天下」の名で世に送り、国内は元より中国・東南アジア地域においても好評にて需要に応じきれないほどの注文が殺到していた。 事業は順風の中に進み、更なる発展を期して昭和13年に資本金45万円にて合名会社飯田洋晒染工場を設立する。 発掘当時のくり舟 商標「満天下」 大正9年当時の会社 |
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混乱期 昭和16年~29年(1941~1954)
戦争をはさんで激動の時代へ
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昭和16年(1941年)に太平洋戦争が勃発し社員は次々に戦争に召集されることになる。
原材料不足が続き、燃料にも事欠き奈良の亜炭山を買い当座をしのいでいた。 生産は軍の要請で灯火管制用の暗幕の製造をしていたが、昭和20年3月に次ぎ6月の大阪大空襲で工場は全焼、操業休止を余儀なくされた。 昭和22年、つぎつぎに社員が復員し綿布晒工場を立上げ操業再開の灯りを点した。 翌23年には待望のメリヤス晒染工場を再開し、これを機に株式会社飯田晒染工場・合名会社飯田メリヤス晒染工場として改組する。 26年に独自開発のメリヤス精練漂白法によるI式特許連続精練機を考案し、これで得た製品は「特許晒」として好評を博した。 昭和28年2月に初代社長飯田常次郎が死去、草創期から激動の時代を生き76才の波乱の生涯を閉じた。 2代目社長に飯田常次郎[浅太郎改名]が就任する。 昭和23年当時の会社 (右)二代目 飯田常次郎社長 (左)飯田弥兵衛専務 初代社長銅像 |
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成長期 昭和30年~47年(1955~1972)
合繊ブームから綿ニットの復活へ
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時代は30年代に入り「もはや戦後ではない」を合言葉に急速に近代化へと向かっていった。 合成繊維が一大ブームとなり、これに対応して35年に合繊ジャージ整理工場を新設し、更に38年には合繊トリコット・ジャージ染色整理工場を竣工し本格的な稼動に入った。 高度成長期に入り合繊ブームから綿ニットの時代へと移り、その部門を大幅に拡張するとともに高級アウター向け製品の開発に力を入れ、綿ニットで最初のマーセライズ加工に成功し「綿ニットシルケット加工機」の特許を取得するに至った。 44年には品質の向上をはかるQCサークル活動を開始し、全社員の参加と協力で大きな成果を上げていった。 昭和46年8月1日付で将来を託した社名として「飯田繊工株式会社」と名称を変更する。 その年、合理化と管理の充実を目指してニットメリヤス加工工場を新設する。 ここで自社開発の日本初の「オープン式連続精練漂白加工機」を設置し、量産に大きな威力を発揮した。49年には2号機が完成し綿ニット業界に技術革新をもたらした。 生産業務の一連化を画すためコンピュータを導入し管理体制が確立された。 46年10月に加工工場の竣工式を兼ねて「70周年記念式典」が華々しく開催された。 オープン式連続精練漂白加工機(1号機) 創業70周念記念式典 |
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